モンテッソーリについて

私がモンテッソーリ教師の資格を取るに至ったことについて、それは最初から志していたのではなく、偶然のようなものでした。アメリカに渡り、数週間の語学学校が終わる頃次に所属するところが決まっていなくて、幼稚園教諭の資格があるなら自分のスクールで働かないか?と上から声がかかり、その園がモンテッソーリスクールで、働きながら1年かけて学校に通いモンテッソーリ教師の資格が取れるからやってみなさい、と言われてよくわからずに飛び込んだのが経緯です。勤めていたスクールは、0歳から12歳まで一貫してモンテッソーリ主義でした。私は3-5歳のクラスに勤めました。ボスがギリシア人だったし、同僚はフィリピンやスリランカ出身、子どももベトナムの子、台湾の子、などなど、国際色豊かなスクールでした。

朝登園すると自由な室内遊びから始めます。早朝と夕方に過ごす子にはその時間帯用の別のおもちゃ、レゴとか組み木など、が用意されています。それらはふだんの保育中には使いません。正課の中では、副教材やプロジェクトも含め、モンテッソーリ教具の中で過ごします。室内遊びでは教師が適宜関わりを持ちながら基本的には個別の活動です。ひとつ遊んでひとつ片付けるので、一斉のお片付けの時間はあまり必要ありませんでした。終わりの時間に自分がやりかけていたことを完成させ、それを片付けるだけです。
そして線上歩行に各々加わり、気持ちが落ち着いたところでサークルタイムでした。今日は何月何日であるか。お誕生日の子がいたらその日にみんなでお祝いする。曜日ごとのテーマがあり、それに沿った教具の提供、歌や手遊び、読み聞かせなどの時間があり、それから外に出ます。外から戻るとランチ。そして午睡、おやつ、もう一度外に出てお迎え〜夕方の保育という日課でした。早朝や夕方の遊びさえ個別で、自分のエリアを小さなラグで確保し、その中で自分のおもちゃで遊びます。そんな光景がお部屋のあちこちに点々とあります。個人主義の国とはこういうことなのかと思いました。『みんなで』という活動がほとんどありませんでした。そのような文化だからモンテッソーリは取り入れやすかったのではないかと思います。情を大切にし、助け合い協力する精神の日本人には、このやり方は冷たく映ると思います。

中にいたので、それは必ずしもそうではないといくつかの点で感じています。このような日課の中でも、子どもたちは自分のルームの先生たちが一番好きで、ルームのメンバーには仲間意識を持っていました。このスクールでは、一斉に学年が変わることがありませんでした。0-3歳クラスで、そろそろ3歳に近い子が相性の良さそうな3-5歳クラスにときどき遊びに来て一緒に活動します。慣れたら移行してきます。年間を通して、ポツポツと小さい子が加わり、大きい子は小学校前の1年間をKというクラスで同学年で過ごすので、その時期に数人抜けて、緩やかに入れ替わりながら、いつも18人から22人ほどの子どもが長い時間を一緒に過ごす縦割り保育でした。一斉のプログラムがないのですが、ルームごとにチームのような共同意識が育ち、それぞれのカラーがあったのは興味深いことでした。

子どもとは元気でやんちゃなもの、というのは世界共通の認識ではなさそうに思います。子どもだから仕方ない、という感覚に日本文化が比較的寛容であり、欧米はあまりそうではないかもしれません。一方で、子どものことも一人の人間として認めているというのがあちらの文化の主張かもしれません。
私は子どもが落ち着いて静かな活動に熱中している姿を子どもらしくないとは思いませんでした。今でも、子どもの方がそういう活動は得意だろうと思います。大人の方が集中力なさそうです。また、外に出れば体をいっぱい使ってよく動いていました。静と動の調和が気持ちよかったです。
それで、日本でモンテッソーリが不可能なわけでは全くなくて、文化は違えど同じ人類、子どもの本質まで異なるわけではなく、その文化に合わせたやり方で本当にマリア・モンテッソーリが実践したかったことを実現することはできると思います。実際に実践例はたくさんあります。

だから、やり方や理論に固執するのではなく、個を、子をよくみるという原点に立ち返って、そのうえにモンテッソーリメソッドがあることを理解したいなと思うのです。メソッドがあるものは原理に走りがちですが、人あってこその原理であり、一人の人間が育つ過程への情熱はすべての原点です。誤解されたり迷いやすいモンテッソーリについて、思うことでした。